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不可能だと思いますか?
And then, we start to walk.
2001年12月。私たちが事業展開している「DAWN WebService」を構成するサーバ群、そしてグループ各社が抱えるホスト群。これらの管理を集中・集約管理し、コストダウン、そしてパフォーマンス向上を図る。この様な企業経営方針としての、ひとつのミッションが提案されました。そしてこの時期は、全社が株式会社日本データの持株会社へと体制を移行する重要な時期でもありました。合理化と効率化、水平経営への移行への意識も含まれます。

私たちは株式会社日本データの持株会社化を念頭に、各組織、各部門の抱えるホスト群の集中・集約管理の計画を立案しました。その計画の中には、「サーバをより安全に運営する」というコンセプトが含まれていました。このコンセプトは、万一サーバを集約している場所で大規模な時事が発生したとしても、バックアップとなる場所に配置されるサーバ群がその役割を確実に担えること。そして、管理コストおよび運営コストの削減までを実現できる事です。

■コンタクト。そして佐世保へ。
最初に私たちは、候補となった場所の行政機関へコンタクトを行いました。様々な地域がある中、誠意をもって対応が行われ、具体的なプランを提示してきたのは唯一、長崎県の産業振興財団だけでした。積み重ねる話し合いの中、現地へ出向き、長崎県全体の地域に関する情報や視察を行い、佐世保市が全国でも「地震が少ない土地」であるという事実を認識するようになります。同時に失業率の高い地域であることへの認識と、一人当たりの平均所得額の低さへも驚きを隠せずにいたのも事実です。

私たちにとってミッションに含まれる様々な問題が、徐々に解へと繋がり始めていました。ただし、得るだけではこの土地は変わらない。かつて、ハウステンボスの創始者である神近氏が持った先々への「創造」を持つことも大切であるように、私たちがこの地に進出した後のビジョンまでを確立させよう。そのような意識が生まれ始めていたのも確かです。

私たちは24時間の管理体制を持った施設を必要としていました。ハウステンボスだからオランダを意識して。そういう理由からではなく、オランダでは実績の多いワークシェアリングに関しても勉強を始めます。8時間シフトでの3名雇用。これを6時間シフトの4名雇用にする事で、失業率を少しでもカバーできるのではないのか。いや、4時間のシフトを採用し、6名の雇用を行った場合との比較はどうなるのか。新しい試みに難しい扉を開いたのかも知れない。そう思ったこともあります。

■立地協定と企業誘致
徐々に状況を把握できはじめ、具体的なビジョンが出てきた時に、長崎県との「立地協定」という言葉が出てくるようになりました。企業誘致制度を受け、助成金などを得るための前段階に必要な協定です。通信費や人件費に関する補助が中心であり、私たちには好条件のものが数多くありました。そして、「最低限20名の雇用を確保すること」という条件も。

最初の疑問は、「私たちが必要としている人材が、どれだけいるのか」という非常にシンプルな疑問でした。Uターン希望の人材や、現地でIT関連事業に従事している転職希望者などがターゲットになっていたのと同時に、これから先を担う若年層を教育するという事への期待もありました。しかし、Uターン希望者は長崎市内、諫早市内に多く、この佐世保という土地へのUターン希望者は少なく、また、「これだけの報酬があれば、Uターンしてもいい」という意識がある方々も多く見受けられました。「この佐世保を良くしたい。福岡や佐賀へ人が流れるような街ではなく、ここに留まる街へ変えてゆきたい」私たちが望んでいた人材は、正直、このような人々です。

時が流れるだけで人材が見つからない。少々の焦りと共に、佐世保での拠点となるオフィスビルの内覧。セキュリティが確保でき、電力も確保できるビル。ここでも難関に直面します。さらにインフラとして絶対となる光回線の普及状況という条件は、「まだ来ていない」という回答。計画だけが先行し、スタート地点まで到達できないという障壁に愕然としながらも、「何か解はあるはずだ」と小さな希望を抱き、行動を継続していました。

■すべての問題が解消されるとき
「光回線がすでに来ているところがあります」この言葉を聞いた時は、ようやくひとつの難関を越えられるかと思っていました。そこはハウステンボス。県庁の方々と共に話を伺いに出向き、情報システム部門の方々との顔合わせや、経営サイドとのミーティングなどが幾度か行われた後、ハウステンボスの情報システム部門のある建物へ、私たちの拠点が配置されるという方向での進展が見られ、回線、電力、セキュリティ、すべての問題が一気に解消したと安堵の思いで一杯でした。そして時を同じくして人材も。

長崎県産業振興財団の佐世保拠点。ここではIT普及委員として数名の人材が雇用されていました。そして任期満了と共に雇用も完了すると言う事実も把握します。財団の方に紹介を受け、面会を頂く機会が与えられます。驚いたことは、皆が地域のために何かをしたいと真剣に取り組んでいる姿。暑い中を汗を流して走り回る活気です。そしてそれは私たちが求めていたもののひとつ。すべての駒が揃った瞬間です。

一月に一度のペースで佐世保へ行き、ハウステンボスとの詳細を詰める日々。地震の無い土地、ハウステンボスと言う知名度、回線や電力の確保、良き人材への到達。すべては順調に思われ、そして私たちの中でも日程調整と言う最終段階へ移行をする時期が近づき、新しいサーバや周辺機器の手配が開始されました。

■ハウステンボスの倒産
突然のハウステンボスの倒産。その2週間程前に、ハウステンボスの幹部の方々と最終的な方向性の確認や調整を行ったばかりの私たちにとっては、非常に大きな出来事でした。同時に計画はすべて凍結。現在までに費やした時間をすべて白紙に戻す他ないと実感させられた瞬間でした。プロジェクトとしては致命的な出来事であり、そして私たちの士気は抜け殻のように漂い始めます。

社内での調整はすでに完了し、設備投資までもが完了している現状。私たちは話を白紙に戻しつつも、これからをどうするべきかを考える必要がありました。しかも緊急に。諫早市にある長崎県ソフトウェアセンターを候補とするか。その場合、人材の確保は一からの着手となるが、どれだけの期間が必要なのか。長崎市に拠点を配置すべきか。あるいは、他の県への変更も考えるべきなのか。

最終的に決議された答えは、「現状の回復を待つ」でした。しかしながら、完了した設備投資を無駄にはできない。この部分は先行して東京で運用を開始する。佐世保と言う街に行き、そして佐世保と言う街を知り、出逢った人々や、好意的に迎えてくれた佐世保市役所の方々。ここまでの繋がりを創ってくれた長崎県庁の方々を落胆させる事はできない。それでなくても、ハウステンボスの倒産による傷は深いはずだと。私たちの選択した道は、この時点では正しい事だったのかの結論付けはできませんでした。しかし、人をがっかりさせる。これだけはしてはならない。その一致見解からの判断です。

■それから1年間後の再開。
東京本社では、サーバ群も順調に稼動を始め、すでに軌道に乗っている状態を維持できていましたが、ここ東京で永久に事業を継続してゆく事が、経営判断としても正しいことではないという認識は、誰もが持っている懸念事項です。ハウステンボスも徐々に支援企業の候補が固まりつつ、存続の道と経営再建の要を得ているというニュースが入ってきていました。もう一度、現地の様子を見に行こう。これが私たちにとって大きな出来事になるとは、この時点では誰も想像しなかったと思います。

ハウステンボスの方々とのアポイント。雲の中で物を掴むような中、少しでも多くの状況の把握と可能性の模索。結果は好ましいものではなく、終結まではまだ時間がかかるという感触を得た、それが結果でした。市役所の方々ともお会いし、光武市長を交えての、今後の事についての会談も行われました。「佐世保を良くしたい」。このキーは、私たちにとっても空しく響くだけだった。それが私たちの率直な感想でした。市役所の企業誘致推進室としても同じだったのかも知れません。

長崎県産業振興財団のIT普及委員であった、豊島氏が、任期を満了して自分で仕事をしている。この情報は、あれから1年という時間の中でひとつの話題にはなっていました。正直、どのような状態で事業をしているのか。また、事業としても成立するほどの顧客がいるのだろうか。その様な疑問を抱いていた事を記憶しています。私たちが展開するサーバ事業は立地性に関係なく、全国、全世界の顧客へのサービスを佐世保から提供できる。しかし、地域へ向けたビジネスだけで事業が成り立つのだろうか。素朴な疑問でした。

その様な事を思い出しながら、佐世保から帰京の準備をしていた時、ふと豊島氏に電話をしてみた。これが今回のCM放映までにつながるきっかけになるとは…。今思い出しても人生は面白いものだと実感するシーンのひとつです。彼は、同じくIT普及委員をしていた久間氏、川添氏と共に、ブレイクスルーシステムワークス社を創業していた。それは、佐世保市の企業誘致推進室が置かれている隣の商工課が提供している「企業化支援センター」という場所で。

■方向転換への決断
彼らは立派に企業をしていた。ただしそれはひとかけらの曇りも無い経営ではなかった。それは収益の問題でもなく、人材の問題でもない。何をすればいいのか。そして、経営と言う、あるいは会社と言う組織の運営はどう行うべきか。という問題です。事業的には、顧客もある、収益もある。取り急ぎの事業展開は成立していたと思います。そして良い思考と向上心も。

比較的仕事の多い東京ではそれでもなんとなく将来までの可能性を見出せたのかもしれません。しかし、佐世保と言う土地だけを視野に入れたビジネス展開は非常に難しいであろう。私たちの判断はここにありました。そして、経営というノウハウ、戦略的な事業展開や地域事業への貢献。これらすべての要素を取り込む必要があるのではないのかと、実直に感じ、ぶつけてみた。

私の口から出ていた言葉は、迷いもなく、また流れるように話が次々とつながっていった。代表者である豊島氏には「経理や財務、広報など、本来このメンバーがやるべき事への負担となる部分を私たちに任せてみないか。そしてその分、自分たちの役務を十分に全うして欲しい。将来的にハウステンボスの件も収束が見られれば、その時に私たちが既に蒔かれたシードとなって存在していても良いのではないか。それが無いとしても、私たちはサーバ事業などで、ここへ仕事を任し、この佐世保をITという産業の拠点にできるのではないか?」その様な話をした事を記憶しています。

お互いの思いが完全にシンクロした時の雰囲気は直感的にわかります。そしてその時も。

企業誘致制度はいらない。20名の雇用という制約に縛られ、彼らのビジネスチャンスを潰すわけにはいかない。立地協定による助成や補助をあてにするなら、私たちはこのメンバーにすべてを託してみたい。それが2004年の4月19日。そして彼らが誓った約束。


長崎県を日本一のIT産業拠点にする


その意識が、今回のCM放映の真意です。仕事を探すのではなく、こういう仲間と仕事をしたい。ちょっとからかってみようか。そんな意識でも構いません。彼らにアクセスしてみてください。彼らの熱意は、佐世保を本当に変える力があるのかもしれません。

そして、この話の続きは、また後日に…



株式会社日本データソリューション
豊島尚樹 (代表取締役)
久間貴史 (取締役)
川添裕至 (取締役)




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